完璧主義を手放すとき

生きづらさ

完璧主義が生きづらさを生む理由

完璧主義は一見すると向上心の表れのように見える。常にベストを尽くそうとする姿勢は社会的にも評価されやすい。しかしその裏には、強い自己否定や不安が潜んでいることが多い。僕自身も「絶対にミスしてはいけない」「中途半端は許されない」と自分を追い込んできた時期がある。結果として得られたのは達成感ではなく、疲労とストレスばかりだった。完璧を求めすぎることで、かえって行動が遅れたり、人間関係がぎこちなくなることもあった。

僕の完璧主義エピソード

社会人になってから、資料を作るたびに何度も見直し、修正を繰り返していたことがある。誤字脱字があるだけで「ミスをしてしまった」と落ち込んでしまうのだ。そのため、完成度を高めようとするあまり提出がギリギリになることもあった。上司から「丁寧なのはいいけど、時間をかけすぎだ」と指摘され、かえって評価を落としたこともある。今振り返れば、そこまで神経質にならなくても良かったのにと思う。当時の僕は「100点じゃないとダメだ」と思い込んでいた。

完璧主義の裏にある不安と恐れ

なぜ100点を求めてしまうのか。僕の場合は「人から嫌われたくない」「認められたい」「怒られたくない」という気持ちが強かった。失敗すれば見下される、欠点を見せれば評価が下がる、と勝手に思い込んでいたのだ。しかし現実には、他人はそこまで僕のことを気にしていない。むしろ、少し抜けている方が人間味があって好かれることすらある。完璧主義は自分を守るための鎧のようでいて、実際には自分を縛りつけているだけだった。

完璧を手放した小さなきっかけ

僕が少しずつ完璧主義を手放せるようになったのは、ある先輩の存在がきっかけだった。その人は細かいことを気にせず、時には失敗しても「まぁいいか」と笑い飛ばしていた。最初は「不真面目だな」と思っていたが、仕事の成果はしっかり出しているし、周りからの信頼も厚かった。今では僕も尊敬する、「こんな人になりたい」と思えるような素晴らしい先輩だ。そんな先輩の姿を見て、「完璧じゃなくても認められるんだ」と気づかされた。僕も試しに資料の細かい部分にこだわるのをやめてみた。すると意外と上司も気にせず、むしろスピードが上がったことで評価が良くなったりもした。

「ほどほど」でいいと自分に言い聞かせる

完璧主義をやめようと思っても、長年の考え方はすぐには変わらない。僕は今でも時々「もっとちゃんとしなければ」と焦ってしまう。しかし、そのたびに「ほどほどでいい」と自分に言い聞かせている。100点ではなく、70点や80点でも十分に価値がある。むしろその方が続けやすいし、心も軽い。人間関係においても同じで、「良い人間であろう」と頑張りすぎるよりも、自然体で接した方が信頼されやすい。

完璧主義を手放すと得られる自由

完璧主義を手放すと、不思議と行動が早くなる。失敗を恐れなくなるからだ。挑戦すること自体のハードルが下がり、少しの失敗なら「次に活かせばいい」と前向きに考えられるようになる。僕自身もブログを書くとき、最初は文章を何度も直して時間ばかりかかっていたが、今では「とりあえず書いて公開してみよう」と思えるようになった。

まとめ:完璧主義を手放して生きやすくなる

完璧主義は一見良いことのように見えるが、実際には自分を苦しめることが多い。僕自身の経験からも、完璧を追い求めていたときは疲弊するばかりだった。少し力を抜いて「まぁいいか」と思えるようになってから、むしろ成果も出るようになった。大事なのは、100点を目指すことではなく、70点でも続けられる自分を肯定することだ。完璧を手放すと、心が軽くなり、生きやすさが広がる。

楽にいきましょう。

あとがき

学生時代、良い点数をとればとるほど評価されていたことで、自然と完璧を目指していた。しかし社会人になってからは、最初から100点をとる必要はないこと、そして最初から100点をとれる人などほとんどいないことを痛感した。
70点、80点でも十分に価値はあるが、これは「適当に仕事をしていい」という意味ではない。最初は30点程度でも構わないのだ。とりあえず提出してみて、ダメなら修正してまた出せばいい。その繰り返しで成長していける。上司が良い人なら具体的な修正案をくれるだろうし、もし具体的な案がなくても、今の時代ならAIに相談できる。実際このブログもAIを頼って形にしている部分がある。とはいえ、僕はここに自分の想いや経験を込めたいので、その部分だけは自分の手で書き続けていくつもりだ。

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