優しさは誰のため?|優しい人ほど損をするのか

人間関係

優しさは得なのか損なのか

「優しい人は得をするのか、それとも損をするのか?」
そう考えたことはないだろうか。少なくとも僕は何度も考えたことがある。

頼まれたことを断れずに自分の時間を削る。
相手を思ってやったのに感謝されない。
利用されているように感じることさえある。

実際、僕も仕事の場でよくそういう場面に出くわす。
たとえば、本来は自分の担当ではない仕事を「ちょっとお願い」と頼まれて引き受けてしまう。
最初は軽い気持ちでも、積み重なると疲弊していく。
それでも断る勇気がなくて「まあ、仕方ないか」と思ってしまう。

そんなときに浮かぶ疑問。
優しさはいったい誰のためにあるのだろうか。

優しさは「相手のため」と「自分のため」

優しさは一見「相手のため」にあるように思える。
困っている人を助けたり、気を遣ったり。
社会はそうした小さな優しさの積み重ねで成り立っている。

でも実際には「自分のため」でもある。
誰かに優しくすると心が少し温かくなるし、「自分は人の役に立てる存在だ」と思える。
つまり、優しさは自己肯定感を得る手段でもあるのだ。

僕自身、仕事をするときにこの感覚をよく味わう。
「誰かのために、この人の助けになれれば」と思いながら動くことで、自分自身の存在意義を確かめている。
人に感謝されると、やはり嬉しい。
「役に立てた」という実感は、自分を前に進ませてくれる。

だからこそ、優しさは相手と同じくらい自分のためでもあるのだと思う。

優しさが損につながるとき

ただし、ここに落とし穴がある。
自分のための優しさが、いつの間にか「犠牲」になってしまうのだ。

・頼まれごとを引き受けすぎて疲弊する
・相手を気にするあまり本音を押し殺す
・「優しい人」でいようとして無理をする

そうしているうちに、優しさは自分を苦しめる重荷に変わる。
「優しくしなければ」と思い込むほど、どんどん消耗してしまう。

僕自身も、断れなかったことで夜遅くまで残業し、家に帰ってから自己嫌悪に陥ったことが何度もある。
相手にとっては「ちょっと助けてもらった」程度のことでも、自分にとっては大きな負担になっていた。
その瞬間、優しさは報われるどころか、自分をすり減らす原因になってしまうのだ。

優しさはもっと自由でいい

優しさは本来、もっと自由であっていい。
「見返りを求めない優しさ」が理想とされがちだけど、感謝を求めても構わない。
「ありがとう」と言われたいから優しくするのも、立派な優しさだ。

逆に、優しくしないことも悪ではない。
「今は無理」と断ることも誠実さのひとつだと思う。
むしろ、無理に優しさを振りまいて疲れるよりも、よほど健全だ。

とはいえ、断るのは簡単ではない。
僕自身も「断ったら嫌われるのではないか」「冷たいと思われるのではないか」と不安になり、つい引き受けてしまうことが多い。
けれど、少しずつでも「断ることも優しさの一部だ」と思えるようになった。
自分を守ることは、結果的に相手に対しても誠実でいられることにつながる。

本当の優しさとは?相手と自分のバランス

優しさは誰のためか。
相手のためであり、自分のためでもある。
どちらか一方ではなく、その両方のバランスで成り立っている。

もし優しさが自分を壊すものになっているなら、それは本当の優しさではない。
相手と自分の両方に穏やかさをもたらすものこそ、本物の優しさだと思う。

優しい人ほど「相手を第一に」と考えがちだ。
けれど、そこに自分を含めなければ、いずれ息が詰まってしまう。
本当の意味で優しくありたいなら、自分の心にも優しさを向けてあげることが必要だ。

まとめ|優しさはもっと楽でいい

優しさは人を救う力を持ちながら、人を縛ることもある。
だからこそ「優しい人は損をする」と言われるのだろう。

けれど、優しさはもっと楽であっていい。
優しすぎて苦しくなるなら、少し減らせばいい。
それが難しくても、できたときには「よくやった」と自分を褒めてあげればいい。

優しさは誰のため?
相手のためであり、そして自分のためでもある。
その両方を大切にできたとき、優しさはようやく本物になるのかもしれない。

楽にいきましょう。

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